某人間の死ぬまで生きたい

とある凡人が8割健康を目指して日々を生きる記録。自分を実験台に、あれこれ試しつつレビューなど書いてみんとする。

今日の体

昨日は予定が変わり早く終わったので、のんびりひな祭りを楽しむことができた。

蛤の味わい深さよ。

そうよこれこれ、と、体に沁み渡る滋味。

酢飯が食べたかったのでちらし寿司も。母が、酢飯が好きであった。父が酢の物を好まないので、食卓に登場する機会が少なかった。

父は手の込んだ料理を作るが、母の豪快な家庭料理が、やはり自分の基本の味になっているように思う。父がトマトを潰すところから作ったスパゲッティミートソースも美味しかったが、テンションがあがったのは母のナポリタンだった。

子供の頃の食事は、栄養面のみならず、心の面でも深く刻まれると思う。

給食も大好きだったので、小中卒業の悲しみは友と離れることだけでなく、給食が無くなることもかなり大きかった。

闘病生活もあり、母が台所に立たなくなったのは数年前からであるが、旅だったことでいよいよその機会が永遠になくなったことの喪失感は、この先も消えぬであろう。常日頃思うことではないが、ふとどこかで近しいものを食べた時にそのことに気づいては、涙を流さずにはおれないのだ。町のカレーライス屋さんで泣きながらパクついていたのは自分である。辛かったわけではない。

母の味を受け継ぎたかった気持ちはあったが、それも叶わなかった。料理は面倒そうであった母で、教えることがとにかく苦手であった。何を聞いても適当な回答しか得られなかった。これという代表料理があるわけではなく、あらゆる料理にそこはかとなく漂う母イズムが、母の味を作っていた。そのようなものを一朝一夕で習得できるわけはなく、長年共に台所に立ち、手伝うことでしか習得できないことを知るのがあまりにも遅すぎた。


ただ、舌は覚えているはずだ。味覚センスは母の影響を受けている、と、思う。わからない。希望である。


野菜が不足していたので、今日補給したい。